konnoe’s blog

読書と旅が趣味。人生に疲弊してみたり、希望をもってみたり、、、

思い出の家族旅行と戦後73年

旅先からの投稿。
旅先でネットが繋がらない環境だったので、ブログの更新もできずにいました。
少しは繋がるんですけど、がっつり繋がってないとどうもブログって書きにくな…。
今日はネット繋がりやすい環境だったので、ひさしぶりのブログ。

今週のお題

今週のお題は、「思い出の家族旅行」とのことで…
さいころ、旅行にはよく連れて行ってもらったので、いろいろ思い浮かぶけれど、
「どれが一番思い出に残っているのか」と聞かれると、どれも楽しかったなという感じでした。
どれもよかったし、あまり嫌な思い出もないので、逆に一番が選びにくいなという感じ。
ただ、一つ言えるとしたら「印象に残っている」という意味での「思い出の家族旅行」は、小学校のころの、広島の「原爆ドーム」に行ったときのことかな。
今日が8月15日だったから偶々思い浮かんだのかもしれないけれど。
お題を出しているヒルトンさんが求めているものではないと思うけれども。
それでも、やっぱり「#思い出の家族旅行」はこれだなと思った。

戦争の凄惨さ

私はどんな内容においても大人になるまでの記憶が結構抜け落ちていて、
(要するに忘れっぽい)だから、先にあげた広島の旅行を全部覚えているわけではない。
とにかく、そんな中でも私が鮮明に覚えているのは原爆資料館にあった「被爆再現人形」です。
今は撤去されているますが、昔行ったことのある人は知っていると思います。
あの人形がとにかく怖くて、怖くて、夜も思い出して眠れなくて、それから数日眠りが浅かったのを覚えている。
あの時はしんどかったけれど、今になって思うとあの恐怖を体験しておくべきだったなと思い、あの場に連れて行ってくれた親にとっても感謝している。
家族旅行ってやっぱり楽しく過ごしたいもんだけど、あれを見るとやっぱりつらく苦しい気持ちになるでしょ。
そのあとにも、家族で沖縄の戦争の跡地を回ったことがあったんだけど、その時も重苦しい空気になってさ。
でも、それってすごく大事なことだと思うの。
家族の楽しく過ごす温かい時間と同じように大事にすべきだと思う。
幼いころ体で感じた恐怖や空気の重さって大人になってもずっと残っていると思う。
その当時の恐怖や苦しみなんてわかるはずないけど、「戦争は恐ろしいものだ」と私の戦争に対する思いの原点はあの人形、あの小学生のころの家族旅行にある。
大人になって友達なんかと旅行に、行くことはたくさんあると思う。
でも、なかなかそんなところ行かないと思うのよね(行く人は行くけどね)。
だからこそ、家族や学校はそういう体験を子どもにさせてあげなきゃいけないと思う。


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この記事を書くにあたって、あの「被爆再現人形」の撤去のニュースを調べてみた。
(↓リンク先にはその画像もあるので、しんどくなるかも。。)
広島・原爆資料館:「被爆再現人形」25日に幕 - 毎日新聞
私も当時勝手に「残酷だからって撤去するのはどうなの?」と、どちらかというと撤去は反対だったんだけど、撤去された経緯が

被爆者から見れば(実相を反映しておらず)人形はおもちゃだ」と指摘。

というのは初めて知った。情けない…
調べると今はないけれども、当時の広島市のHPにもこう書いてあったらしい。

被爆再現人形は、非常に印象に残り、当時の情景を伝えているという展示だというご意見があります。しかし、一方で被爆者の方は、無残な遺体がたくさんあり、男女の区別さえつかず、親子でさえ見分けることができない情景を体験されています。そうした状況からは、被爆再現人形に対して「原爆被害の凄惨な情景はこんなものではなかった。もっと悲惨だった」といったご意見もあります。展示をご覧になられる方の見方によっては、原爆被害の実態を実際よりも軽く受け止められかねません。

広島平和記念資料館の被爆人形は、「怖いから撤去」なのか? - 荻上式BLOG から孫引きさせていただきました)
そうかそんな思いがあったのか、と思いつつ、個人的には、人形は残しつつ、さらに「実態をわかるような」資料(人形じゃなくてもいいので)を作ればいいのじゃないかとも思う。
悲惨な人からしたらあの人形は軽すぎて苦しいんだろう。
そんな適当に作るなという怒りの気持ちがあるのかもしれない。
一方で、被害が少ないから・軽いから、その証言(ここでは人形だけど)をなくしては、いろいろなものがなくなってしまうのでは?と思ってしまう。
もっと被害が重い人がいることをアナウンスするのが大事なのであって、展示物をなくすことがいいとは思わない。
人形残さないことは、さらに凄惨さが軽くなるような気はしなくもない。
自分の体験を照らし合わせてみても、あの人形は原爆の恐怖のわかりやすい収束だったような気もするからだ。


私は未だあの戦争を把握しきれていない

上の記事に限らず、今年になって戦争について知ったり、考えたりしたことががこの夏は多くあった。
下の記事もそう。
「絶望しない国」で生きる、ということ(森達也)|ポリタス 戦後70年――私からあなたへ、これからの日本へ

戦後ドイツを全面的に称揚するつもりはない。ただし自分たちの過ちについて、日本とドイツの意識のあいだには相当な差異がある。戦争における日本のメモリアルデーは、戦争が終わった8月15日と広島・長崎の8月6、9日。そしてドイツのメモリアルデーは、アウシュビッツが解放された1月27日とヒトラーが首相に任命されて組閣した1月30日だ。つまり加害の記憶とナチス体制が始まった日――これがドイツにおける戦後70年の歴史の原点だ。だから彼らは毎年思いだす。なぜ自分たちはナチスを支持したのか。なぜ自分たちはあれほどに残虐な行為に加担したのか。深い絶望とともに考え続ける。だからこそ現実的な選択ができる。


日本人は絶望的なまでに絶望しない。


直後には大騒ぎするけれど、すぐに目を逸らす。責任を曖昧に分散しながら希釈する。個ではなく集団に紛れてしまう。そして同じ過ちを繰り返す。再稼働する。

もちろんそれゆえの強さもある。敗戦からたった十数年で奇跡的な復興を成し遂げた。この原動力に…

日本とドイツの戦争におけるメモリアルデーは「うーん、確かに」と唸るほかなかった。
そんなことを考えたことがなかった自分が恥ずかしくなるようだった。

さいころから夏になるたびに「戦争はだめだ」と教育を様々な場所で受けてきた。
それでもまだまだ知らない知識がある。知らない感情がある。知らない衝撃がある。
まだまだ目を背けていることがある。
どこまで私たちがあの戦争を「把握」できているかというのは疑問だ。
そして、そもそも「把握すること」なんてできるのか、ということもある。
でも、きっとあの戦争を把握しようとする努力の中にしか平和な道は築けないと思う。
戦後70年を超えて、さらにその把握が難しくなっている。

自分が無知であること、目を背けている事実があるかもしれないこと、
そのことを忘れずに私はずっとあの戦争と自分を繋げていきたい。



#思い出の家族旅行

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