konnoe’s blog

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「子ども時代のつながり方」からの卒業するためのヒントをくれる漫画3選

今週のお題「卒業」
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卒業したいのは?

さて、今週のお題が「卒業式」ということで、"自分が卒業したいことは何なのか"を考えてみました。
私が卒業したいのは、「最終的に孤立を選ぶ人間関係」です。
いきなり重そうな話になってしまいましたが…、私は数年前まで健全な(?)人間関係を築けていると自負していたのですが、ここ数年でその認識は180度変わり、いろんなことでしんどくなったの原因を探ってみると、結局、自分自身の人間関係だと気づいたんです。
私は子ども時代から、人とつながってきたように見せかけて、厳密にいうと人と”切れてきた(切ってきた)”ような人間関係を築いているなぁ、と。


今、ちょうど、『子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方』という本を読んでいます。(この本は漫画じゃない)

「アダルト・チャイルド(AC)」の概念を生み出したクラウディア・ブラックが書いた本です。
すべての人間は”子ども時代”を通過しているわけで、本書の『子どもを生きればおとなになれる』という題名が、一体何を意味しているのか疑問に思われる方もいると思います。
しかし、いわゆる「機能不全家族」で育ったアダルト・チャイルドの多くは、”きちんと子どもで生きる”ことが、できない環境で育ってきていると言われています。家庭内に対立や虐待、親からの過干渉などがあれば、安心して「子どもらしさ」など出すことはできないからです。そんな子どもたちは、「大人」の仮面をかぶって、責任をしょい込み、「子どもらしさ」とは無縁な歪な人間関係をそこで学んでいきます。(ちなみに本書では「機能不全家族」に共通する土台となっていたものが、「否認」「孤立」「硬直」「シェイム」だと捉えている。いわゆる「機能不全家族」とまではいかなくても、これを読んでいる方の中にも、幼少期にそれらを感じながら家庭にいた人もいるかもしれません。)
そのような家庭で育った人の中には、大人になってからも、子ども時代に築いた「歪な人とのつながり方」を維持している場合が多く、健全な関係を築くことができない場合があります。
そんな子ども時代に築いた「歪な人とのつながり方」の解決法として、よくあげられるのは「『子ども』を生きなおす」というのが、通説であり、本書もそれにのっとって書かれています。


「子ども」を生きなおす

私自身も、機能不全家族と呼べるほどではないんですが、親が完璧主義かつ過干渉だったのもあり、冒頭に書いた通りいまだに「歪な人とのつながり方」をしていると自覚があります。(私の場合、親だけが悪いとかそういう話ではないです。幼いときの私の勘違いもあるし、親自身が機能不全家族の中で育ったことも原因になっているからです。)
そして、数年前に「歪な人とのつながり方」による過労がたたり、またずっと今まで心の底にあった希死念慮が一気に噴き出したのです。なんとかよいカウンセラーと巡り合い、今は順調に回復してきています。そして、その回復は、カウンセラーを通して、交流分析ゲシュタルト療法などと出会い、「『子ども』を生きなおす」ことをしてきた(今もしている)おかげだと思っています。


面白かったら、無邪気に笑って、
悲しいときは人の目も気にせず大泣きして、
辛かったら、我慢せずに「もう嫌っ!」って言って、
欲しいものがあったら、「ほしい!」ってダダをこねて……

そんなふうに子ども時代を生きることができなかった人は、「『子ども』を生きなおす」ことができればいいのですが、なかなか社会生活を送る日常では、大人であるゆえ出せないんですね。私は「子どもらしさ」を心理療法の中でやってきました。
そして、普段から気持ちがしんどくなってきたら、自分でも「『子ども』を生きなおす」ことを思い出すようにしています。
前置きが長くなりましたが、今回はそんな私が「『子ども』を生きなおす」ことを思い出すときに助けになってくれるマンガをご紹介します。
全部、ネタバレを含んでいますので、見たくない方は注意してください!


①丹羽 庭『トクサツガガガ

トクサツガガガ (17) (ビッグコミックス)

トクサツガガガ (17) (ビッグコミックス)

  • 作者:丹羽 庭
  • 発売日: 2019/09/30
  • メディア: コミック
前にも紹介したことがありますね。
konnoe.hatenablog.com
話の内容としては、主人公・仲村叶が、特撮オタクOLであることをひた隠す苦労や、オタク仲間とわちゃわちゃするのを「オタクあるある」の形式をとりながら、面白おかしく書いているようなマンガです。なんですが、主人公の仲村さんのお母さんが結構な毒親なんですよ。幼いころは「天才てれびくん」を焼かれています(仲村さんの最大のトラウマ)。
巻が重なるごとに、仲村さんは、好きな「特撮」を否定してくる母親と向き合うことになるわけですが、親子関係が修復できなくなるくらいヤバい状況になってくるんですね。暴力沙汰です。
主人公は、社会人になって経済力をもつことによって、幼少期に”女の子らしさ”を求め続けてきたお母さんに諦めさせられた「特撮」を悠々自適に楽しみます。(社会的にはまだ隠そうとはしているけど。)そうやって、主人公は子どもを生きなおしているわけです。そういうシーンがいろんなシーンに挟み込まれていて、親から趣味を強要されてきた人は共感できるものがあると思います。
ただ、お母さんですよ。仲村さん本人はそれで解決しても、お母さんは解決されない。お母さん自身の幼少期が描かれているわけではないのですが、夫と離婚し、一人で息子と娘(主人公)を育てるために、自分のために生きるのは我慢して身を削ってきたわけです。(お母さんは可愛いもの、いわゆる”女の子らしいもの”が好きなのです。)が、それを娘が否定して生きていること(=特撮オタク)が発覚するわけです。
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(「叶ちゃん」が、主人公のことです)
お母さんからしたら、「もう許せないったらない!」って話ですよ。

こうして母と娘は(兄も巻き込み)揉めに揉めていくのですが、最終決着シーンで、その仲村さんのお母さんが「小さい女の子」として登場するシーン(17巻)が私はジーンとくるわけです。
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このシーンよりも前の巻に、

人のために、誰かのために、身を削るほどに、失った自分の中身を相手から取り戻さないと気が済まなくなる。

という文言が出てくるのですが、仲村さんのお母さんは生活の中で”自分が失った中身”を娘の仲村さんの中に取り戻そうとしていたわけです。
逆説的ですが、”自分のためにしっかり生きた人”(≒子ども)しか、”他人のために生きる人”(≒大人)には、なれないのかもしれません

※ちなみに、しつこいようですが、この辺のシーンはいたって真面目なんですが、基本はふざけた推している漫画です。



➁高野 ひと深『私の少年

2冊目はこれです。

私の少年(7) (ヤンマガKCスペシャル)

私の少年(7) (ヤンマガKCスペシャル)

主人公は、スポーツメーカーに勤める30歳、多和田聡子。彼女は、夜の公園で12歳の少年、早見真修と出会う。サッカーを教えるという名目で二人は会うことになるのですが、それぞれが抱える孤独に触れ、互いを必要なものと感じていく……そんな作品です。
「感情の微妙な揺れがいいよなぁ~」なんて感じつつ、あらすじなんか読んでも「聡子の真修に対する気持ちが、母性なのか、恋愛なのか」みたいなことが書かれていて、頭が固い私としては「ちょっと恋愛はヤバイでしょ、犯罪だろ」とか考えてモヤモヤする作品だったのですが(フィクションだってわかってるけど!)、7巻でぐーっときてしまいました。

聡子は、いろいろあって実家に戻ることになるのですが、実家での母親とのやりとりの中でどんどんいろんな感情をため込んでいくわけです。
母親は、聡子のことを「この子、おばさんだから」っていい年の大人扱いするのと同時に、子ども扱い(というか無能扱い?)してくるわけですよ。親子関係であるあるだと思うけれど、そんなことは、笑い飛ばせばいいんだけど、ずっと不倫した母親への不信感を学生時代から押さえつけていた聡子としては、それが許せない。
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聡子としては、子ども時代から自分の子どもとしての気持ちを必死で押さえつけ、「大人」として日々を乗り越えているわけですよ。なのに、母親はいつまでも子ども時代から縛りつけてくる。

でも、真修の言葉で、聡子は自分自身の中で、まだ”ずっと悲しんでいる聡子”がいることに目がむいていくわけです。
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強く生きてきた(そして、こじらせている)主人公が子どもの頃の傷と向き直すこと。それが、大人ではなく、当時の「子ども」としての感情として癒される…そんなことが人には必要なのかもしれませんね。

いい漫画なんですが、なんか二人の関係性が危うすぎるので、このまま終わってほしい気もする漫画です。

ヤマシタトモコ『異国日記』

大人と子どもの心の交流を描く系漫画(?)が続きます。
少女小説家の高代槙生(35歳)は、姉夫婦の葬式で遺された娘の朝(15歳)が親戚をたらい回しにされているのを見過ごせず、勢いで引き取ることになります。しかし、槙生はこじらせレベルとしては、さっきの紹介した『私の少年』の聡子の比ではなく、人付き合いが苦手だし、融通も利かなくて、片付けも苦手で……非常にまっすぐな人で、私なんかはこんな人すごい好きだけど、世間的には認められないような人なんだろなとも思います。(作品中で周りから「マトモな人」かどうか怪しまれるシーンもいくつかあるし。個人的には、誰よりも”まともな人”だと思います。超不器用だけど。)
二人の生活の中で、朝の成長とともに、槙生が過去の悲しみ(姉からの拒絶)と向き合っていく過程(まだ向き合ってはないかな?思い出す程度?)が描かれていて、それが子ども時代の感情を味わうという意味で「子どもを生きなおしていく」ことになっていると思うのです。
姉からの拒絶のシーンではないけれど、槙生が自分の学生時代を思い出す下のシーン好きだな。
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朝から見ると、友達といるときの槙生は「大人してない」そう。
そのあとの醍醐さんからもらう手紙の話が好き。
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本当に10代って生きてるだけでしんどいですよね。
ここで、話題になっている悪友のダイゴさん本人の手紙も素敵です。
30代になって10代の頃の「支えられたもの」、逆に「傷つけられたもの」を”その当時の感情をもって”味わい直すことで、今の生活に新しい発見が見えることも確かにあると思います。


田房永子『キレる私をやめたい ~夫をグーで殴る妻をやめるまで~』

コミックエッセイ。ノンフィクションなんで、キツいです。
子ども時代の家庭の機能不全っぷりは前作の『母がしんどい』の方に詳しいのですが、本書では、筆者が大人になって回復していく様子が描かれています。
機能不全家族の中で育った著者は、結婚し子どもも生まれるのですが、夫に対して些細な事でヒステリーを起こし、物を投げたり、暴言を吐き続ける毎日を過ごすようになります。時間がたてば理性を取り戻し、そんな「キレる」自分に自己嫌悪に陥る。ただ、それで解決するかというとそうではなく、さらに、怒りが増していき自分ではコントロールできなくなっていきます。ついには、産んだばかりの自分の子どもに手を出してしまいそうになり、「変わらなきゃいけない」と医者や講演会や自助会などをめぐり、心理学を学びながら変わっていく様子が描かれています。

私は、特にこの本の「ゲシュタルト療法」しているシーンが好きです。
ゲシュタルト療法の「エンプティチェア」(厳密にいうなら「エンプティ座布団」になってますが)をしている様子が、すごくわかりやすく描かれています。
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結局、大人になってからの人間関係の不具合は、子ども時代からの不具合を、こうやって丁寧に自分の中の幼い時の感情に焦点をあてることで解決されたりするんですよね。著者の場合は、「(夫を殴る)自分」がだんだん「自分の母親」になっていく。幼い時の自分の気持ちをぶつけたり、母の立場になってみたりしているうちに、なぜか心がすっとしていくんです。
心理療法なんて自分がやってみないとわからないと思いますが、興味ある人は読んでみるといいと思います。そして思うところがあったら専門家に相談しましょう。

この本もいいですが、前作の『母がしんどい』も機能不全家族で育った人には、「わかる!わかる!」と共感しながら読めると思います。

母がしんどい

母がしんどい

ただそういう同じような家庭で育った人は、かなり読了後しんどいと思います。私も読んだ後、ぐったりするのでエネルギーがあるときに読むようにしています。



私自身も、今、子ども時代を生きなおしています

私自身が今、「子ども時代を生きなおしている」最中なので、こういうマンガにじーんときます。こういうシーンがある漫画、他にも知っていたら、これを読んでいる皆様、ぜひ教えて下さい。

出会いと別れの季節です。これまで出会ってきた人たちに正しくお別れできるように、これから新しく出会う人たちに素直であれるように、今は、子ども時代をしっかり生きなおそうと思います