konnoe’s blog

読書と旅が趣味。人生に疲弊してみたり、希望をもってみたり、、、

過労者に対しての周りの関わり方

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今週の三連休も出勤です。いや、部活で自分も楽しかったのでいいのですが。まあ、そういうことが積み重なって、過労になっていくのに…

ええと、今日は「過労問題」について書きます。「働きすぎてしんどくなっている誰か」のためになればいいな、と思って書きますが、「過労問題」に関しては個人的なイライラもあるので自制心をもちつつ書きます(制御できるかは自信がないですが。)。時にはそういう怒りも大事なんだってことにしておきます。

「時間削ればいい」ってもんじゃぁ、ないでしょ

ブラック企業」という言葉が世間を賑わせて、数年…という感じですが、世間一般のブラック率はどんなものなのですかね。
うちの職場は「ブラック企業」というより、業界全体がブラックな感じもしなくもない(というかそもそも企業じゃないってね)。
働き方改革」なんて言葉もたくさん出回ってますが、改革されてるんだろうか。
私なんてひねくれてるので、「働き方改革」を声高に言っている管理職たちに「時間だけ減らしとけば上から怒られずに済むだろう」という精神を見て、さらにイライラするという悪循環に陥っています。もちろん本当の意味で、こっちのことを考えてくれてる管理職もいるんですがね。
でも、周りを見回しても、こういうイライラは、私だけではないと思うんですよね。
「過労」が苦しいのは、その労働時間「だけ」が問題なのではなく、そこに付随する労働環境や人間関係も、大きいのだろうと思います。だから、時間を少なくしたところで、複合的にいろんなものが変わらない限り、どこかで歪みが出て、結局しんどい思いをするのではないかとここ最近、頓に思います。


残業を馬鹿にする人、過労を馬鹿にする人

先日たまたま、はてなブログをうろついている時に、この記事に出会って、
www.yutorism.jp
そこの

個人的な意見なんですけど『残業ばっかしている人ってバカなの?仕事出来ないの?そんなに残業代がほしいの?他にすることないの?』と上から目線で見てくる人はあんまり好きでは有りません。 (わたしもいつもどちらかと言うとバカにされているほうですし。。。)
たまたま運が悪かった時もありますし、どうしても必要なときもあるでしょう。
私個人の感情としては、遅くまで残って頑張っている人を、見捨てるようにさっさと帰るのは気分よくありません。

という言葉にひどく共感し、かつ自分がずっとモヤモヤしていたことが晴れた気がしました。


広い世間の中には過労気味の人に「いたわり」を持たずに、上のような発言をする人いるみたいで。。
自分もその立場になるかもしれないのにね。想像力がない人なんでしょうか。
こういう人は、どうしようもなくて論外だと思うんですが、一見、親切っぽく振舞ってくる人の中でも、私は「どうかな」って思う人もいます。
例えば、「プライベート大事にしましょう!QOL大事!飲み会しようぜ、ウェーイ」みたいなの。親切なんだろうけど、イライラする。
そういう発言に対して過労者(?)側は、
「いや、そもそもやらなくていい仕事なら、やってねーし」とか、
「お前の尻拭いしている間、自分の仕事できなかったから、今やってんだろ」とか、
「っていうか、そもそも、これにいたってはお前の仕事だろ!」とかいうのを飲み込んで飲み込んで(飲み込んでないのも多くありますが)生活しているわけで、そこにプラスしてそんなことを言われた日には……キレるしかない。
個人的な話ですが、「QOLの観点で言わせてもらうなら、こっちはあんたとの飲み会に、ライフのクオリティー高くもってませんよぉ。っていうか、プライベート大事にしましょうなら、プライベートに土足で入ってこないでください。お願いします。」といってやりたいです。
ついでに言うなら、うちの職場で「QOL」って言葉を使う人たちは、「QOLって、言葉知ってます?みんな知らない最新の言葉使っちゃう自分カッコイイ」というちょっと時代感覚がずれてる感じの寒すぎる人だからずーっと、馬鹿の一つ覚えみたいに「QOL」「QOL」言って、面倒なんです。
薄っぺらい労働論振り回す暇があったら、もう少し勉強しなさいよ!っていうかそんなことしなくていいから仕事しなさいよ!と心底思います。
自分の職場のことを考えながら書いていると個人的な感情が走りすぎますね。
まぁ、とにかく過労気味の人へのいたわりのなさには、本当にイライラします。
特にこの職業だからかもしれませんが、対人援助職についているにも関わらず、同僚に仕事が偏っているのに手伝いもせず「プライベートの方が大事!」なんて平気で言ってのける人の気が知れません。
ただ、言われてもイライラしない人もいる。この違いは何なんだろうっていうのが次の問題。


過労者よ、それは心配ではなく「マウンティング」ではないか?

一見、親切っぽく見えるそれになぜかイラつくのは、それがマウンティングだと心の奥で知っているからじゃないかと最近思えてきました。
でも、この「心配に見せかけたマウンティング」って、質が悪くて厄介だと思う。こういう「親切っぽい声かけ」に悪意を持つことは、良くないと思われがちだからだ。
どういうことかというと、「この人は私のことを思って『仕事よりもプライベートが大事だよ』って言ってくれてるのに、その人を嫌悪するなんて、私ってひねくれているわ!」とか。
もちろん本当にひねくれているのかもしれない。
過労の時は現実が歪んで見えている場合も多いし。
でも、よく考えてみたら、本当に心配しているか、していなかなんて、単純に空気でわかるって話ですよ。
「仕事しすぎだから調節しましょう」と声をかけてくる人は、2パターンいるということは冷静に考えればわかる。
「心から過労者を心配している人」と、「ただ自分をあげて他人を落としたいマウンティングしたい人」と。(あと、「上から言われて仕方なく言う人」もいるね。)
後者の人たちは、自分が仕事でうまくいかなかったら「仕事ばっかりの人生嫌じゃね?」とかいうし、プライベートうまくいってなかったら、「仕事デキル自分カッコイイ」みたいなモードになるものですよ。
そんな人たちって、普段評価されなくて、とにかく評価されたくてうずうずしてこんな行動に出ちゃうんでしょうけど(そういう人たちも認められる社会になればいいのにね。と頭の片隅では思う)、過労の人たちにマウンティングするのはお門違いってなもんです。
過労で疲れてる人に追い打ちをかけるんじゃないよ!
過労の真っただ中にいる人、そんな人たちに絡まれて、自己嫌悪になることはない。過労の人たちは、無批判に「親切」を受け止め、自分を責めて余計に自分の無能感を深めていくのではなく、「自分のことを心から心配してくれる」理解者をちゃんと見極めることが必要だと思います。



関連記事
konnoe.hatenablog.com



過労者の支援者へ

とはいえ、過労の時って本当に誰も信用できなくなる(自分が一番信用できないんですけどね)のが一番怖い症状だと思うので、誰が自分の味方かを見極めるなんてかなり難易度高いです。
そういったことも、考えに考え抜くの上に、過労者の支援はあるべきなのではないかと思います。
ちなみに、私が過労気味の人へ与えるべき言葉は、「仕事するな」じゃなくて「頑張ってるね」か「ありがとう」だと思います。
過労の人って、無能感にさいなまれてコントロール感を失っている場合が多いと思うんです。止められない。
前にも紹介したけど、私はこの漫画がそれをうまく物語っているなーと思う。

「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由(ワケ)

「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由(ワケ)

私はそういった人に「仕事するな」なんて言っても、余計に仕事しちゃうと思う。私ならする。
過労者には仕事を辞めさせ、休養させるのが一番です。でも、過労の人は、「できていないこと」や「するべきこと」ばかりに目がいって、自分をコントロールできなくなっている。だから、その時になくすべきは「無能感」、思い出させるべきは「コントロール感」。つまり、過労の人には、そういう風に思える一言がいいんだと思います。優先順位ちゃんと作ろうなんて話は二の次です。感覚として、コントロールできてる感をよみがえらせないと優先順位なんて決められません。
他にもパーッと遊びに行くのも初期の初期段階では「アリ」だと思いますが、本当に「この人、過労だ!休ませてあげなきゃ!」というくらいの人には逆効果だと思います。仕事でいっぱいいっぱいになってるなら、遊んでもそれは一時の逃げでしかないんだから。(っていうかそれで解決するような人なら、そこまでの過労にならないと思う。)それなら、その余裕で仕事を手伝うか、仕事が偏らないような組織を作っていくことに精を出してあげればいいと思います。

まぁ、みんな自分のことに一生懸命になりすぎて周りが見えないし、疲れすぎて周りを助ける余裕なんてないものかもしれませんが、どうにかみんなで気持ちよく働ける環境を、自分自身のためにも作りましょうよ。



過労の人へ

いつもお疲れ様。それに尽きる。過労の人がした方がいいのは、自分の人生の手から離れた舵に手をつけ、コントロールを取り戻そうとすること。でも難しいですよね~。
一番は自分を責めないことです。逆説的だけど、「自分の気持ちをうまくコントロールできない」、そんな自分を責めないこと、頑張っているよと応援してあげることがコントロールを取り戻すきっかけになるかもしれない。
時には周りにイライラして、自分がひねくれているように思う時もあると思います。まぁその可能性もなきにしもあらずですが、仕方がない。それが正当だったかどうかなんて過労を抜け出してから考えよう。
自分が思うギリギリ限界の5歩前くらいで休養を取って。ギリギリまで頑張って無理だったら逃げればいいと思っているなら、それは甘い。逃げるという選択肢がなくなってしまうからだ。だからギリギリ限界まで頑張らないこと。
過労のあなたは本当に仕事を大事にしている人だと思う。不真面目な人なら投げ出すもの。
だからこそ、あなたとあなたが大切に思う人・ことを守るために、あなた自身を大切にする選択を増やしてください。
まぁ、手始めにこんなブログ読まずに寝ましょう。


とにかく労働者のみなさん、気持ちよく働きましょう。

明日は、連休明け。こんな記事をせっかく書いたので、みんなが自分の仕事が好きな状態で仕事に向かっていけるような、社会にするために自分自身に何ができるか考えて、行動してみようと思います。
労働者の皆さん、ともに健やかに働きましょう。

教免持ってる新卒の方へ。講師登録をしませんか?

2018/09/24更新
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教員採用試験の結果が出ているみたいですね。ここに検索でたどりつかれた方々が、どういう状況かわかりませんが、新しい進路を考えなくてはいけない状況の方も多いのでしょう。
私も10年ほど前(もうそんな前か!)、そんな感じだったので、参考までに、私の講師体験を記しておこうと思います。

体験談が欲しい

10年ほど前、大学4回生の時に教員採用試験に落ちて、「社会人、1年目どうしよう」と考えておりました。
「公立の学校の教員になろう」と思っていたので、「もう一度、来年、教員採用試験を受ける」ことは決まっていました。しかし、採用試験の夏まで「就職浪人(?)をしようか」、「もう院に行っちゃおうかとか」、とか、いろいろ考えてました。企業に受かるために就活する気はさらさらなかったんですが。オイオイって感じですよね。結局、講師登録をした後、常勤講師として働くことになりました。その時に、いろんな迷いがあったので、体験談なんかを知りたかったのですが、ネット上には、意外に転がってなくて……。
あの頃は「誰か書いてよ!」と思ってたんですが、なかなか自分が書ける立場になると、忙しさにかまけて書かないもので…何年後しかで記事にすることにしました。


講師になるべきか?

私は、大学4回生の10月頃に講師登録をしたように思います。(今の時期と違うかもしれませんので、自分で調べてくださいね。)まず、この時点で、自分の能力に自信がなく本当に講師登録をすべきかどうか迷いました。結局、講師登録に踏み切った理由は


・私の場合、働かなければ生活が堕落するに決まっている。
・講師経験をしていれば、きっと採用が有利になるんじゃないか……(あくまでも推測)

というわけで、2つの自治体に講師登録することにしました。




講師依頼の電話がかかってきた!

講師登録をして数か月……「いつまでも電話が来ない!」と思っていたら、3月の終わりに講師依頼の電話がかかってきました。現場にいる人なら知ってると思うんですが、講師っていわゆる数合わせなので、ギリギリにしかかかってきません。「かかってこなかったら、年度始めに仕事探しかよ!」って話ですが、こっちの生活のことなんか考えちゃいないということです。

3月の末までに、トータルで3つの自治体から依頼の電話がきました。(あと、年度が始まったあとの夏休み前に1件。誰か倒れたのか?)教科や校種によっても、違いが出ると思います。数学の先生は引く手あまたでしょう。

自治体の教育委員会の人から電話がくるのですが、待ちに待ってた電話であるにも関わらず、なんと私は1つ目の自治体からかかってきた電話には、パニックになって断ってしまったのです。「新卒の人間に講師なんてつとまるんだろうか。」って、急に不安になったのです。今思うと「何やってるんだ、私…」という感じなんですが、当時は本当にパニックでした。せっかく声をかけてくれたのに、申し訳ない。

あるかわからない就職口を自ら蹴ってしまうバカをしてしまった私は、さらに焦っていくわけです。

 

断ったけど、どうしよう、、、、

気持ちを落ち着けましたが、断ってしまったことへの罪悪感、そして「来年度の働き口がない、どうしよう」と不安にさいなまれました。(自分が断ったくせにね!)
そうやってモヤモヤしている間に(30分後くらい?)もう一件かかってきました。「どうしよう、どうしよう」と相変わらずパニックでしたが、「私は今、就職口がないんだ!」という焦りの気持ちが勝って、イエスの返事をしました。講師として、採用が決まりました。病休の先生の代わりで常勤講師という枠でした。

 

 

決まったけど、まだ不安は続く…でも!

なんとか来年度の働き口が決まりました。しかし、講師依頼を受けたものの、学校が始まるその日までずっと不安でした。「私、卒業していきなり「先生」なんてできるんだろうか?」って。大学の友達で採用試験に落ちた子は、非常勤になる予定の子が多く、「常勤になったら教採の勉強する時間ないから大変」とか「慣れるために非常勤から」と言っていて、もしかして決断をミスってしまったのかもしれないと思っていました。
もし今、私が昔の私に言えることがあるとしたら「常勤講師になると決めた、その決断はグッジョブ!!」と言ってあげたいんだけど、あの頃はずっーと不安でしたね。

 

 

とにかく時間がない!!

「講師として働いている方が、教採では有利になる」と言う人がいるけど、どうかなと思います。今の試験の形がどうなっているのか、イマイチ知らないのですが、今、受けている現役講師の先生方を見ていても単純に講師だから有利とは思えません。私が大学時代に考えていたような「現場の経験があれば…」みたいなことは、ないと思います。残念ながら。

 

もう1つ、残念なお知らせがあるとすれば、現場に入ってみると時間がないというのは、事実です。
現場では、「採用試験の勉強!」などと言ってられません。

私は、1年目、学級担任はありませんでしたが、学校によったら学級担任だってありえます。常勤講師なら、非常勤にはない校務分掌(いろんな事務的な仕事や会議)やクラブ活動もあります。私の場合、何より、授業準備が大変でした。一からの勉強だし。毎日が必死で自転車操業状態。ほとんど採用試験の勉強できずに、夏休みに突入。「いよいよ教採に向けての勉強!」とか思いつつも、クラブと二学期準備と生徒指導でほとんど勉強なんかできず…筆記はボロボロでした。筆記の試験はともかく、面接ならと思ったけれども、講師の特権である現場の知識を生かせませんでした。「講師の経験」って言っても、4月から夏までの経験だし、それにとにかく毎日を駆け抜けている感じだったので、振り返っている暇なんてなかった。だから、面接でも大学生だった去年と同じようなことしか言えなかったんです。案の条、講師一年目は、教採は不合格という結果でした。

それでも私が過去の自分にグッジョブと言う理由

それでも私は常勤講師をしててよかったと思います。勉強する時間はなかったけれども、そこでのたくさんの出会いに支えられて、「教諭」になるために「本気で」勉強するようになりました。
もちろん、それまでも教員になりたかったのは、なりたかったのですが、今振り返ると本気度は低かったように思います。当初は「教員になりたいなら、待遇面を気にしないなら一生、常勤講師でいいんじゃないか?」と、「教諭」である必要性も感じていませんでした。

 

ここで、少し話はそれますが、私は講師時代のことを思い出すたび、ある子(Aとする)を思い出します。Aは傍から見るとしっかり者なんだけど、いろいろ抱えていて私はAの悩みを以前から聞いていました。年度の終わりにA自身に大きい災難が起こりました。いろいろA自身も周りの人間たちも苦労したものの、それ自体はなんとかなりました。その後、私はAに「一緒にこれからも頑張ろうね」と声をかけようと思ったんです。でも、やめました。だって来年は私が代わりをしている病休の先生が帰ってきたら、私はこの学校にはいれないから。別にAは、私がいなくたってちゃんとやっていけるだろうし、卒業したらどうせ離れるんだから「それはそれ」と割り切ればいいし、依存する関係を作るがいいとは思わないんだけど、私自身がその一言を言えない立場であることがとても情けなく思えてきたんです。
そして私はAだけではなくて、今受け持っている子すべてに対して、「そういう立場」なんだと気づいたんです。もちろん教諭になっても、様々な事情で3年間持ち上がりで上がれることは少ないと思いますが、講師である限り、教諭より子どもたちと長いスパンで付き合う可能性は低くなります。

 

 

今、思うこと

そこからの数年は、本気で寝る間も惜しんで必死に採用試験の勉強をしました。で、数年後、合格。私は、あの講師を必死にやりながら勉強した経験も、Aに「一緒に」と言えなかった悔しさも、とても大切だったんだなと今になって思います。(この記事も参考になるかも。)

現場にいると、いろんな経歴の先生に出会います。採用試験受かるために就職浪人した人、大学院を出た人、企業で働いて転職してきた人、非常勤での講師経験がある人…。それぞれの道でいろんな学びをしてきて、だからこそ、それをいかしたそれぞれの持ち味があります。だから、どの道を選んだって間違いではないと思います。

私は、新卒で常勤講師としての道を選びました。まぁ、上にも書いたように「選んだ」なんて偉そうに言えるような流れではありませんが。あの頃は、時間はなく、毎日、満身創痍でしたが(今も?)、私はこの道を選んでよかったなと10年たっても思います。

参考になるかわかりませんが、もし、講師登録を迷っている方がいたら参考にしてください。

 

追記:実は、昨日Aから何年かぶりに連絡がきて、話しているうちにいろいろ思い出してこの記事を書きました。Aに当時の話は覚えておらず、ケロッとしてました。いかに一人で熱くなってたかよくわかる事件でもありました笑

 

 

夏だ!教採だ!


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教員採用試験の季節になりましたねー。

私も何度か落ち、やっと受かった口なので同じ職場の講師の先生方を見てると、ついつい応援したくなります。

でも現実は残酷なもので、「この先生には是非受かってほしい」と思うような先生が落ちることも多々あったりして…。そういうとき、私のような人間が受かってて肩身狭くなったりすることも…

 

大学生でも、講師の方でもいいんですが、僭越ながら、今年教採を受けようとしている方々に言いたいのは、「がむしゃらに勉強を頑張って下さい」ということです。いや、そりゃ、わかってると思うんですがね。「がむしゃら」なんていっても、例えば常勤講師をやってる方の夏休みなんて、部活指導に、補習に、研修に、秋からの行事の用意に、(時には地域からの電話で生指に!)駆け回り、「どこに夏休みがあるんだー」と叫びたいくらい時間ないですよね。私もそうでした。でも、その中で必死に寝る間も惜しんで勉強したという事実そのものが、教採の合否と関係なく、教員として大きな財産になったなと振り返ってみて思います。「先生は夢を叶えるために必死に頑張ったんだ!」という教員の姿勢は、日々頑張っている子たちの肯定に繋がります。講師がどうとか詳しい話は子ども達にはできませんが、努力することのしんどさも、喜びも、身をもって語れるというものです。どうせ受けるなら簡単に受かるより、そういう教員としての財産を手に入れて受かって下さい。

 

偉そうなことを申しましたが、兎も角、教採を受ける皆様、幸運を祈ります。