konnoe’s blog

読書と旅が趣味。人生に疲弊してみたり、希望をもってみたり、、、

人生をマウンティングしあうこと

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友達と飲みに行った話

同年代と友達と飲みにいった。「仕事を辞めた子」や「仕事を辞めたいと思っている子」が多いこと、多いこと。かくいう私も過労がたたる毎日で、特にここ数年は「もう生きていけない!」というくらいになっていたので、本当にこの気持ちがわかる。理由はいろいろあると思う。単純に過労で疲れ切っているのかもしれない。年代的に生き方について考える転換期なのかもしれない。結婚とか出産とか。それに今の このご時世、一つの仕事だけで生きていくなんて考え方自体が古いのだろう。去年、仕事を辞めた子は働いたり、休んだりを繰り返したりをしながら、生き生きしている。「仕事やめて良かった!」そんなものだ。とは考えつつも、私自身は「仕事やめたいと思ったときにやめてなくて良かった。」と心から思って働いている。(数年前の仕事をやめたいと思っていた過去の私にこんなこと言っても信じてくれないけど)

この生き方が正しい論争になりがち

で、ある友達が「今の仕事が嫌いなわけではないけど、割に合わないからやめたいんだけど、別にすることもないし、好きなことだけで生きていける気もしないし、結婚も今の彼氏(パートナー)とするのはどうかなと思ってるし…」みたいな話をし始めた。この手の話が長くなると、お悩み相談から一転して、マウンティング大会になる。親切心から「こんな生き方したらいい」、「これをすると素晴らしい人生になる」って提示するけど、それが他人の生き方をぶった切っているみたいな…。わかりやすい感じだと

  • 仕事せずに自分の好きなことだけして生きていくのが人生の最上
  • 仕事に誇りをもって仕事によって自己実現を果たすのが人生の最上
  • 愛する人と結婚し、子どもを育てるのが人生の最上

などなど。そして「それ以外の生き方は不幸ですよ」みたいな言論に陥るわけです。盲目的に無自覚に自分の生き方が最上であることを信じていて、それを押し付けられるのも嫌だけど、「私の方があなたより上の幸せを持ってんのよ!」っていう対抗意識のみで押し付けられるのが一番嫌だ。で、大体、嫌な気分で飲み会が終わるというパターンよくある。ある。でも、この時のメンバーは、あまりマウンティングしない人たちだったので、むにゃむにゃっと終わった。

マウンティングが嫌いだ

とにかく私はマウンティングする人が嫌いなので、こういう「人生の幸せはこうだ」っていうマウントの取り合いで、自分の生き方に干渉されたら、めちゃくちゃムカつくし、惨めな気持ちになる。怒りや辛い気持ちを何日も引きずるタイプ。人間だれしも(?)「自分で自分のことを否定するのはいいいけど、てめぇに言われかねぇよ!!!!」ってことは往々にしてあると思います。いくら悲惨であっても、自分の今の人生を他人に否定されたくないもんじゃないでしょうか。これからの生き方に悩んでいる人に親切心で言っている人も見かけるけど、マウンティングしながら困っている友達に新しい人生論を提示しても「ああ、あの生き方したいな」なんて思わないと思うんですよ。マウンティングなんて無視すればいいし、「ああ、あなたはそう考えてるの」でいいのに、なかなかそれができないから人間やっかいですね。

強迫観念「幸せにならなきゃ」

最近よく思うんだけど、そもそも社会全体が「幸せにならなきゃ」欲求激しくないですか。私自身もそうで、幸せになる方法とかを常に検索したり、考えている(この記事とかも:幸せについて2014 - konnoe’s blog)。本もそんなのばっかり読んでる。「幸せになるためのたった一つの方法」とか「これをすれば人生うまくいく!」みたいなのは、すぐ食いついちゃいますね。最近ではなく人間は、「人生とは何か」「人はどう生きるべきか」なんてことは、何百年も前から考えているとは思いますが。

幸せな人生論を追求し続けると生きづらい

「幸せな人生」を考えること自体は素敵なことだとは思いますが、それが行き過ぎると「生きづらい」と思います。少なくとも、私は生きづらい。「より幸せな人生がある」というのは、希望でもあるし、一種の絶望でもあると思う。今の人生を否定しなきゃいけないわけだから。どんな悲しい生活をしていようとも、今の人生を否定しながら生きるのはしんどいっすよ。自分の今の人生を心から肯定できているなら、前に進めると思う。でも肯定できない人がマウンティングされたり、「より幸せな人生」を提示されたところで辛いと思う。もう、そんな時は「幸せな人生であるべき」ってことさえ捨ててしまったらいいんじゃないかな。「怒り狂う人生でもいいじゃないか。」「卑屈に打ちひしがれる人生でもいいじゃないか。」って。それくらいの心意気で自分の人生を肯定していったらいいんだと思う。もうこの世にはいない人で、無念のうちに死んだ人もいると思うけど、じゃぁ、その人はいわゆる成功した人より人生の価値が下ってわけじゃないじゃない?だから、どんな人生でもOKなのよ。極論「幸せな人生」じゃなくても。もちろん人に迷惑をかけるような人生はよくないし、理不尽に怒り狂ったり卑屈な人生を送らなきゃいけないのはおかしい。だから、それとは闘っていったらいいと思う。でもそののことと、あなたの人生に価値があるかどうかは別の次元の話だと思うのよ。

人生の上も下も勝ちも負けもない

言い古された言葉でさびが付いていそうな言葉だけど、人生は競争じゃないということ。マウンティングしあう限り、自分より格上だとか格下だとか、勝ったとか負けたとかそんな論理で考え続けなければならない。
なんとなく長田弘の「We must love one another or die」という詩を思い出した。この詩の内容はぶっちゃけよくわからない。愛することを愚かなこととしつつ賛美しているのだとしたら、私は別に人を愛することが最上だとも愚かだとも思わないので共感はしにくいが、言葉の一つ一つには共感できるものがある。

不正確というより不誠実だ、と。
たぶん、そうだと思う。
わたしたちは、そのように
愛について、また、死について、
糺すように、書くべきでない。

愛、死も、人生も糺すように書いても仕方がない。

人生は受容であって、戦いではない。
戦うだとか、最前線だとか、
戦争のことばで、語るのはよそう。

人生の勝ち組、負け組なんてナンセンス。見えない誰かと戦うのはやめよう。胸を張れるような人間にならなくても、愚かな人間でもいいじゃないと励ましてくれているように思える。この詩はこんな風に終わる

わたしたちは、
愚か者として生きるべきである。
賢い愚か者として生きるべきである。


なんか自分の中でマウンティングされる人生についての結論が出そうだけど、まだ考えがまとまってないので、この詩を引用しながむにゃむにゃ終わる。
いつか社会のマウンティング問題に終止符を打ちたい。