konnoe’s blog

読書と旅が趣味。人生に疲弊してみたり、希望をもってみたり、、、

差別発言に「生産性」があるのか。

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杉田議員の「生産性ない」発言が本当に許せない。
みんなこのニュースを知ったときいろんなことを考えたと思うけど、私はすぐさま自分の母親を思い出した。

生産されたものの悲しみ

私の母親は、差別的な考え方をする人だ。
それ以外では尊敬する部分もあるけど、本当に未だにこういう感覚だけは許せない。

今は面と向かって母に「それはおかしい」とか「それは差別的だ」と指摘できるけど、
幼いころの私は論理では太刀打ちできなかった。
けれど、ずーっと何かおかしいと思っていた。
人種差別が特に酷いが、正当な理由なく人を貶すことは人種以外でも多くあった。


その中で「母親になってない女性」を、こき下ろすこともよくあった。
仕事をしながら私を育てるのは大変だったんだと思う。
「お母さんは偉い」って褒めてほしかったんだと思う。
「それでも、自分をあげるために人を貶すなんてひどい」と幼い私は思って、 母のいろんな発言を聞いていた。
もちろん今回のような「生産性ない」的な発言も多くあった。
毎日、毎日そんな発言ばかり聞かされていると、途中から自分自身が恥ずかしくなって、私は死にたくなってた。
子供心に「『私』を盾にして、この人は『子どもを産んでいない人』を、下に見てるんだ。」って思ってた。
差別の道具に自分が使われてる気がした。
恥ずかしかったし、「母が差別する対象」の人たちに対しての罪悪感があった。
だから自分の命に誇りを持てなかった。
いろいろあって、幸いにして、死なずにすんで、こうやってブログ書いているわけですが。

で、今回の一件について思うの。

「生産性を求めてるみたいだけど、むしろ、こんな差別発言こそ生産性あるの?」って。
差別は生きようとする意志を搾取する。
それで傷つけられた人はもちろん、それに触れた人すべて。

そもそも生産性って何?

「生産性」「生産性」っていうけど、その人間にどれくらい生産性があるかなんて、
子どもの有無で決められるものじゃないし、
そもそも、どの人間も「人生を生きたことそのもの」で無条件に生産性があるといっていいと思う。


東田直樹の「自閉症のうた」にこんな一説がある。

「命のバトン」という言葉があるが、これは命をつないで生きることを意味しているのだろうか。
 僕は、命というものは大切だからこそ、つなぐものではなく、完結するものだと考えている。



命がつなぐものであるなら、つなげなくなった人は、どうなるのだろう。
 バトンを握りしめて泣いているのか、途方にくれているのか、それを思うだけで僕は悲しい気持ちになる。
 他の人がバトンをつないでくれるという意見もあるだろう。でも、それなら「命は完結する」でいいと思う。それぞれの人生を完結させることでしか、人は前に進めないのではないだろうか。
 人生を生き切る。
 残された人は、その姿を見て自分の人生を生き続ける。



その長さに関係なく、「生き切ること」そのものが「生産性がある」と言っていいと思う。
そして、「すべての人に生産性があるんだよ!」って大きな声で言うことと、
それを感じられる居場所を与えるのが公のために動く人の仕事だと思うど。
議員なんでしょ?この人。



おかしいもんはおかしい

とにかく、この発言に傷ついた人、差別に負けるないで! 私も一緒に憤ります。